ここは接触者受を全方位から肯定するETERNITY実行委員会からの提議と主張の場です(笑)。
かなりの偏見に満ちておりますが、これを読んで不快感を催されたとしても一切責任は負えませんので御了承下さい。
永遠の男を愛でる
『ETERNITY』という名前は皆様お察しの通り、フェイのイメージというカルバン・クラインの香水『ETERNITY for MEN』(永遠の男)から取っています。『永遠の男』接触者は何故受なのか? 偏見を交えて懇切丁寧に解説。(当然ですがあまり本気にしないように(笑))



何故「接触者は受」でなければならないのか.それはゼノギアスという物語において,接触者の存在そのものの定義が既に受だからである.良識的な考えでは,接触者は必ず母と結ばれる運命なのだから(男女の関係性から言って)むしろ常に「攻」なのではないかと判断される向きもあるかも知れない.しかし,それは物事の本質を見ず,ただ表面的に捉えただけの愚考に過ぎないことをあえて明言しておく.それには「攻・受」の定義からして説明しなければならないが,長くなるので詳細は割愛する.ここでは,カップリングの関係性は肉体的に攻だから攻とは限らない,攻女×受男という組み合わせも(かなり多くのパターンで)見られるということだけ記しておくに留める.

さてゼノギアスの主人公は,言わずもがなフェイである.しかし,色々なところで言われているように,この主人公は影が薄い.いや,ストーリー上の役割は大きいので,影が薄いと言うより華がない,いわゆる「地味」なのである.普通,和製ファンタジーRPGの主人公と言ったら,西洋系の白色人種で,剣系の武器を持っているのが普通である.しかし,フェイは中国系の東洋人で,格闘家故に武器も持たない.見た目的には金髪王子のバルト(銀髪の副官付き)が主人公に間違えられても致し方ないだろう.同人誌等で人気があまり高くないのも,この見た目の地味さでかなり損をしているのではないかと推測できる.
もっとも,これはシナリオ上計算されてのことであると判断される(実際に見た目は地味にしてくれという指示があったらしい).彼は,設定的に持たされたものが余りにも大きいので,表面的な飾り付けはこの程度で十分,というよりも見た目が地味だからこそ,そのすさまじく重い設定が活きてくるのである.後述するが,彼のシンプルなキャラデザインは接触者の持つ清楚な処女性をイメージさせ,武器を持たずに闘う設定は,彼がイドになった時に振り上げられる拳の(精神的な)重さを効果的に表現する.

ところで,ゼノギアスのもう少し大きな意味での主人公ということになると,フェイを含む『歴代接触者たち』ということになる.一般的な意味での主人公は,接触者として産まれたうちの一人ウォン・フェイフォン,のうちの人格のひとつ「模擬人格フェイ」(後に統合するが)だけであるが,それはあくまでもエピソードVが彼の目から語られているという意味である.6つのエピソードからなるゼノギアス・サガとも言うべき長い物語の中での主役は,転生を繰り返してきた接触者達…個々の接触者というよりも,神を定義し,再び解放する者としての連続した『接触者』という存在そのものである.

彼らは本質的に「同じ存在」であるが,人格の統一が見られるミァンやエレハイムと異なり,記憶は共有しても個々の人格(ペルソナ)は独立して存在している.そもそも,前世の記憶を保持していると言っても,ゲーム中でその膨大な記憶を持っていたとおぼしき接触者は,ゾハルと完全接触した「統合フェイ」,不完全接触したグラーフ,そしてイドのみである.にも関わらず,彼らには特徴的なある類似点が見受けられる.それは彼らが共通して持っている「無垢なる子供」のイメージである.

母たる者の対比として描かれる接触者に「母に守られる子供」のイメージがあるのは当然だが,ゼノギアスにおいて「母」とは神と同義の意味を持ち,その「子供」は即ちヒトそのものを暗示している.ゼノギアスの最重要テーマのひとつに「人間の神からの解放」があるが,これはそのまま「子供の母親からの解放」となぞらえることができる.「神の人(アーネンエルベ)」とは,母親から解放された「独立した個人」を現しており,それはヒトが一万年前より続く神の呪縛から離れて,己の道を歩き始めることを示唆している.フェイは恐母(ウロボロス)を倒し,神=母からの呪縛の鎖を断ち切ることで,その象徴的な意味を担うのである.(私がフェイがEDでエレハイムと結ばれるのは,そのメインテーマに真っ向から反していないか?と主張し続けているのは主にこうした理由からである.)

また,接触者に「イノセント」のイメージがあるのは,彼が本質的に「巫子」だからである.初代接触者アベルは,特にこうした接触者の始原的なイメージを強く持っている.彼は波動存在という神を降臨させるための依代であり,神に捧げられた汚れのない供物である.神を定義付けることによって,その存在を四次元空間に固定させた彼は,同時にその力の一部を身体に固着させた.神は己を解放させるためには,その逆過程,即ち再び彼と接触するしかないと結論する.
この時より接触者は常に「神と直接接触できる唯一の者」として存在する.逆に言うと,この神と接触できる能力こそが接触者固有の真の力であり,その存在意義でもある.イドやグラーフのような覚醒接触者が莫大な力を発現できるのは,神(ゾハル)の力を100%引き出すことができるからであり,それができるのは接触者が神の力を発現するための「完全なる器」だからである.これは巫子が行う「神おろし」「口寄せ」に近い.だがその強大な力も接触者の「神と接触できる能力」が生んだ副次的なものに過ぎない.

古今東西を問わずどのような文化圏にあっても,このような存在は(それが聖なるものであれ邪悪なものであれ)「忌」と呼ばれ,聖別される.本編中で接触者が「忌むべき哉」と呼ばれるのも,これを受けてのことであろう.古代日本にも斎宮という制度があったが,大抵の場合このような巫子は,その霊力を維持するために世俗を絶ち,純潔を守ることが必須であった.接触者にもそういう意味で「処女性」が強い.
処女性とは母性の対語でもあり,接触者は常に母たる者と対比されることによって,さらにそのイメージが増す.母となることで処女性を失う女性と対照的に,彼は神と契りを交わした後でもその純潔を失うことのない「永遠の処女」である.この永遠の処女のイメージは,母に守られる幼い子供のイメージ,神に捧げられた汚れのない供物(子羊・種無しパン)のイメージ,神の依代たる純潔な巫女のイメージを全て包括している.

この処女性は,実際に精神的には三歳の幼児であった模擬人格フェイに「無垢(イノセント)」の形で最も強く現れているが,実はイドやグラーフを含む歴代の接触者全てに何らかの形で投影されている.例えば,血に親しく痛々しいほどの残酷性を持つイドは,様々な文化圏の伝承にある「戦を司る冷徹な処女神」を想起させ,女性の胎を通さずに己の娘を誕生させたキムは,これも各地に残されている処女母信仰を彷彿とさせる.

「母」との関係性に並んで忘れてはいけないのが同調者(アニムス因子高保因者)との関係である.ゼノギアスの世界では,ヒトは全てアニムス原体と呼ばれるデウス部品の子孫であり,神の部品としての特性を持っている.この特性が強い者,すなわち神の部品としての完成度が高い者ほどゾハルへ働きかける力(エーテル力)が強くなる.これを計るのがアニムス因子と呼ばれる因子で,これが一定値以上高いと「アニマの器」と呼ばれる神の部品を起動することが可能になる.
しかし「同調者」となれるだけの高保因者が産まれる確率はかなり低いと考えられる.何しろラカン,ロニ,カレルレン,ソフィアらがアニマの器を起動した時から,ヒュウガによって次のアニマの器が起動されるまでに500年の期間を要しているのである.このことから,同調者は母と同じく接触者の転生に合わせて誕生するのではないかと推測される.そして誕生したアニムス達は「運命の手に絡め取られるように」接触者の周囲へと集まっていく.しかし実際のところ,この「運命」は必然であり,これを司っているのが因果すら左右する力を持つ「事象変移機関ゾハル」である.つまり,彼らが接触者の元に集まるのは文字どおり「神のシナリオ通り」なのだ.シタンがシグルドと再会したときにそれを「必然」と呼んでいるのは,まさにそのことを示している.

何故ゾハルはアニムス達を接触者の元に導くのだろうか.それは,彼らと接触者の関係性から見て取れる.アニムスと接触者の関係は,シタンとフェイの関係に最もよく象徴されるように,基本的に「保護者-非保護者」の関係である.唯一,目立ったアニムスが近くに存在しなかったキムを除き,例え接触者の側の方が力的に優っていたとしても,精神的な部分で常に接触者は「保護される者」の立場を崩さない.逆に,アニムスと呼ばれる人間達は皆「弱い者を保護する者」という役割を担っている.
この現象はゾハルが接触者を守るためにアニムスを導いているというより,接触者の「守られたい」という願いがゾハルを動かし,結果的に保護者となるべきアニムス達を周りに引き寄せていると考えた方が自然だろう.どれほどの力を持とうとも,接触者は常に守られなければならない孤独で小さな子供なのである.これにはエルドリッジのたった一人の生存者だった,小さなアベルの記憶が連綿と受け継がれていることが大きく関係していると考えられる.
しかし実は「母」が彼をいつまでも力弱い子供にしておくために,つまり自らの存在を「母たらしめる」ために,転生する接触者を常に「幼い子供」として作り出しているという考え方もできる.これはまさに子供の独立を阻む恐母(呑み込む母)のイメージである.

接触者が常にこうした「守られる者」という受動的な立場にあるのは,そもそも彼の接触者としての始まり-波動存在との邂逅-に端を発する.初代アベルが幼い自分を守ってもらうものとして,波動存在(神)を定義つけた瞬間に,彼のその後の長い長い人生は決まってしまったと言ってもいいだろう.
この時,神と人間は母子関係となり,ヒトの母からの独立という長い旅路が始まったのである.この「独立」がゼノギアスのメインテーマであるならば,その象徴である接触者は独立の過程において「守られるべき幼き者」から「母親から独立した成熟した者」への脱皮を図らねばならない.
歴代接触者が全員精神的な意味でいわゆる「受」であるのは,このゼノギアスの物語を支える上で必要不可欠な要素なのである.接触者は接触者だから受なのであり,受であることが接触者というキャラクター造形の基礎になっていると言ってもよい.

もちろん,接触者が受であることは,フェイの体つきがHぽいとか,鎖骨が誘っているとか,項が丸見えだとか,思わず上着の紐を引っ張りたくなるとか,声が緑川光だとか,走っているときのポニーテールの揺れ方が可愛すぎるとか,戦闘に入る前の屈伸運動がたまらないとか,イドの尻のラインが絶品だとか、そういう理由も大いにあるが,もっと根本的なところで,彼が受であることは初めから定められているいわば運命と言っても過言ではないのだ.



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